母の叔母にあたる大叔母は、戦争未亡人として大陸から引き揚げてきた後 鹿児島湾をはさんだ指宿の対岸にある根占町に住んでいました。
子供はおらず個性の強い人で私と感情的に噛み合わないときもありましたが、近年は理解しあえるようになってきていました。
また私の子供や親戚の子供たちをとても可愛がってくれて「バッバン」と慕われていました。
大叔母は一人暮らしで経済的には自立出来ていましたが何かにつけて母を頼り、又母もできる限りの気遣いをするという関係にありました。
大叔母は平成2年、膵臓に障害のあることがわかり(慢性の膵臓炎) 隣町のF医院に通院するようになりました。それでもちょくちょく指宿に遊びに来て、かくしゃくたる元気なお年寄りぶりを見せていました。
平成8年の夏頃から大叔母は食欲不振を訴えるようになりました。母は年が年だから(82歳)と思っていたのですが、そのうち目立って痩せてきて異変を感じたようです。主治医のF医師に相談し、その紹介により肝属郡医師会病院で精密検査をうけました。12月中旬のことです。
担当のM医師から母だけ部屋に通されて検査結果の説明があったそうです。膵臓ガンで胃と肝臓に転移していて、もう末期の状態にあるということでした。 そして手術を希望するか否かを尋ねられました。
母は過去に肺ガンで手術した経験があり〔第一話〕、高齢の大叔母に今になって苦しい思いをさせることは耐え難く手術を断りました。M医師は「わかりました。余命はあと六ヶ月と思ってください」と答えたそうです。
ただ母が懸念したのは大叔母が痛みで苦しむかもしれないということでした。 このことを質すと、M医師はその懸念を認めたうえで可能な限り努力すると答えてくれたそうです。
母は主治医のF医師と相談し、
1 「ガンンであること」、「又余命いくばくもないこと」は本人に伏せておく
2 見守りながら、可能な限り今までどおりに過ごさせる
3 医師会病院に入院をお願いする・・・
といったことを決めました。
F医師の協力もあり大叔母は平成9年の正月を自宅で迎えることができました。 母は毎週大叔母のもとに通い、私達も子供をつれて大叔母宅に遊びにいくよう努めました。大叔母はとても喜んでくれましたが体力的な衰えは隠しようもないくらいになっていました。
平成9年2月18日 大叔母は医師会病院に入院しました。
3月上旬、私は『ある方』に電話しました。大叔母が苦しむことなく穏やかな 最後を迎えることができるようお願いしようと思ったからでした。それは以下のような体験をしていたからです。
F君は鹿児島県の北部に住む私の友です。「むすび会」(項を改めて書くつもりです)の参加者として共に『ある方』から考え方や生き方を学ぶ関係にありました。
ところで、F君の母上は平成5年5月に大腸ガンの手術をうけましたが肝臓に転移していて、私がそのことを知った平成6年暮には余命六ヶ月といった末期の状態でした。
平成7年5月12日、F君から電話をもらいました。「母は入院したが、とても苦しんでいる。腰から下がちぎれそうだといって身悶えしている。家族が交替でさすってやっているけどかわいそうで見ていられない。『ある方』に電話して母が少しでも楽になれるようお願いしてはもらえないだろうか」。 私はすぐ『ある方』 に電話しました。
『ある方』は答えてくださいました。それはF君次第だというのです。「Fさんにはテーマがあるはずです。かたくなな気持ちでしか受けとめられないのならお母さんの容体はかわらない。大きな気持ちで受けとめられるのであればお母さんは楽になるだろう。Fさんの気持ち ひとつです」というようなことをおっしゃいました。
予想もしなかったような答えに私は戸惑いました。そして、心にひっかかって いたことを思い出しました。
それは次のようなことでした。
2月はじめ母上のお見舞いのためF君の家を訪ねました。その時 奥さん から「Fが私の実家を理解してくれず冷たい。何とかならないだろうか」とい った話をもちかけられました。そこで私は、奥さんを悩ませるような態度は改 めたほうがいいのではないかとF君に話しました。するとF君は「人には言えない事情がある。自分にとって永遠のテーマで姿勢を変える気はない」と拒否したのです。
この出来事を『ある方』に伝えたところ「それかもしれないわね」という返事 をいただきました。
私はF君に電話しました。そして『ある方』が話してくださった内容を伝え、 奥さんの実家に対する気持ちを変えることをすすめました。F君は、そうしたことが何で母上の容体と関係するのか理解できなかったようです。しかしF君 は『ある方』を知っており、『ある方』の何たるかを多少とも判りかけてきた時期でした。
最後にF君は答えました。「わかりました。気持ちを変えてみます」。
翌朝F君から電話をもらいました。母上の容体が良くなってきたという嬉しい 連絡でした。昨日は母上の苦しみ様がひどくて、いたたまれなくなり家に帰り 電話したのだそうです。私からの電話を受けて病院に戻ると、手伝いの人から 「さきほどから静かになったのですよ。楽になったみたい」と言われたそうで す。母上は、今も静かに眠りつづけているということでした。
F君の母上は5月19日に亡くなりました。あれから苦しむことはなく穏やかな最後だったそうです。このことを伝えてくれたF君の口調には、悲しみのなかにもホットした様子が感じられました。
私は早速『ある方』に電話しました。『ある方』 はその死を悼んでくださいま した。
大叔母に穏やかな最後を迎えさせてやりたいという私の願いを聞いて『ある方』は次のように答えてくださいました。
「命を延ばそうとすることは本人にとってはとても苦しいことです。家族がなんとか命を永らえさせようとすることは本人を苦しめるだけです。だから命を永らえさせたいという願いなら断ります。
苦しむことなく穏やかな最後を迎えることができるということはとても大切なことです。見送る者の側にもやすらぎが生まれるし気持ちの整理もできる。穏やかな最後を迎えることができるように神様にお願いしてみましょう」。
大叔母は苦しむことはほとんどありませんでした。
4月はじめくらいまでは、とても元気で見舞いに行った私達と普通の会話が出 来ていました。
しかし4月下旬、見舞いに行ったときは様子がちがいました。大叔母は「痛い、 痛い」と言って、みぞおちの辺りをさすってもらいたがりました。同行した母 は、初めて見る大叔母の異変に慌てたふうでした。看護婦さんが座薬を処置してくれて大叔母はほどなく落ち着きました。
母の話では、入院期間をとおして大叔母が苦しがったのはこの時だけだったそうです。
そして、べつな時、母は大叔母に、『ある方』に大叔母のことをお願いしたと話したそうです。大叔母はとても安心したふうで両手を合わせました。
このあと大叔母の病状は急激に悪化しました。5月下旬見舞いに行ったときは 「バッバン」という私の呼びかけに目は開けるのですか焦点はあっておらず何か意味の判らないことを呟いているだけでした。大叔母は静かにトロトロと寝ていることが多く、看護婦さんから《優等生の患者》といわれていたそうです。

6月19日午後11時過ぎ、病院から血圧が下がりはじめたと連絡がはいりました。両親と私は桜島フェリーを経由して駆けつけましたが臨終には間に合いませんでした。根占町に住む叔母や近所の方々が立ち会ってくれました。まったく苦しむことはなくトロトロと眠るように穏やかな最後だったそうです。
臨終にはM医師も立ち会ってくれました。M医師は最初の検査のときからご縁があり入院中も色々と気遣いをいただいていました。臨終に際しM医師が涙を流していたと叔母から聞いて、大叔母は本当に穏やかで安らかな最後を迎えることができたのだと思いました。